2009年6月18日木曜日

忘れちゃうから

忘れちゃうから、ふっと感じたことをダダダっと書いていきます。

▼今、村上春樹の1Q84を読んでるんだけど、その中に、「時間と空間と可能性の概念」ってゆう部分がでてきて、引用すると、
「時間そのものは均一的な成り立ちのものであるわけだが、それはいったん消費されるといびつなものに変わってしまう。ある時間はひどく重くて長く、ある時間は軽くて短い。そしてときとして前後が入れ替わったり、ひどいときにはまったく消滅してしまったりもする。ないはずのものが付け加えられたりもする。
人はたぶん、時間をそのように勝手に調整することによって、自らの存在意義を調整しているのだろう。」
時間は平等ってゆうけれど、私はそうじゃないと昔から思っていて。
たしかに質量ってゆうのかな、そうゆうものは平等なのかもしれないけど、子どもと大人の時間の流れ方が違うように、ネズミとゾウの時間の流れ方が違うように、人それぞれの感じ方が違う以上、それは平等じゃないし、「生きていること」意外、何一つ同じことなんてないと思ってたんだ。
なんか、こんなこと前Tumblrにも書いた気がするなw まいいや。

で、この文章。なんか、納得した。
前後の文脈読めば、全然意味合いは変わってくるんだけどね。
ここの部分だけ読むと私の感覚とすりあわすことができて、印象に残ったな。

▼で、それを踏まえて、あらためて何で私本読むの好きなんだろうなって考えてて。
これも前に書いた気がするけど、今、もっと実感としてあるから書いて言葉にしとこと思って。

私は自己啓発本の類を全く読まない。自分から進んで楽しむために読むのは小説だけ。
なんでかってゆうと、啓発本は、著者の知恵をそっくりそのまま一方的に与えてるだけだからだと思う。
だけど、知恵ってゆうのは、運動神経みたいなものだと思う。バスケみたいに体を動かして、走ったり、筋トレしたりで持久力をつけてできることを増やしていくしかない。
だから、知恵ははじめから自分のうちにあるから、与えられるだけじゃ研ぎ澄まされないと思う。
人との出会いや物、場所での発見のなかで、自分の中に溜まっていくものだと思う。
それがあるとき、ふとした瞬間に明確な言葉として自分の外に出てくることがある。
その一つが小説だと思う。
上に書いてあるみたいに、もやもやしてて、いまいち言葉で説明できなかった感情が、小説の中にはある。それはひとつのセンテンスであったり、その情景描写の仕方だったり、表現はそれぞれだけど。
それを発見できたときはすごく嬉しいし、心に残る。自分の言葉につながる。
与えられただけじゃなくて、そこから読み取ることができるから、本は、小説はおもしろいんだろうな。

1Q84、そんなに世間が騒ぐほどおもしろいかどうかは別として、結構しっくりきたな^^
まだ読み終わってなくて、図書館で借りてきたものだから、あと四分の一を今夜中に読まなくちゃいけないんだけどw
1週間で2冊は結構な量だー!

▼ほんでもって今日はiPhoneのアップデート(^^)/
2時からだよーやっとコピペができるようになるw
デフォルトでなきゃ困るんですけど・・・笑
まぁ文句は言えないかー
その分こうしてアップデートごとに進化していくのはすごく楽しい♪
待ちきれないー!

明日は学校だしな!(^^)!
木曜日♪ゼミはたぶん、9日のクラブイベントの内容を詰めてく作業だから楽しそうだなぁ^^
みんなぜひ来てね(^^)/

0 件のコメント: